田辺ひゃくいちの冒険

踏みつけたくなるウンコを求めて。

宣伝会議賞でグランプリを受賞した今、少し大げさで恥ずかしいけど素直に思うこと(殴り書き)

周囲には内緒にして個人(本名)で応募していた「第52回宣伝会議賞」のグランプリを受賞した。


所属組織名を伏せたのは、このブログみたいに下らないことを何にも縛られずに書いていたかったからで、「ぜひ、一緒に仕事をしましょう!」と贈賞式で声を掛けてくれた方々も、ここに書かれている駄文の数々を読んだら気が変わるのではないかと思うが、それはそれで仕方がないと思う。


早速、とある知人から「まあ、今はテキストよりも画像や動画、ビジュアルのインパクトが重要だからね」との祝辞が届いた。「そんなきみだって今年の宣伝会議賞にコピーを応募していたじゃないか」という言葉をグッと飲み込みはしたが、なかなかに悔しい気持ちになった。


いっそのこと、今回の記事もイラストだけで表現してやろうじゃないかと不貞腐れかけたのだが、人生で初めてタブレットを使って描いてみたイラストはあまりにも意味不明だったので、やめておくことにする。


やっぱり、文章がないとなにも伝わらないじゃないか。テキストやキャッチコピーは今だって重要じゃないか。自分自身の画力のなさを棚に上げて、彼にはそう反論しておきたい。


宣伝会議賞のファイナリストに残った。
その連絡が届いたのは、2月の下旬だったかと思う。


地元・北千住の居酒屋「じんざえ門 別館」にて好物のジャーマンポテトをあてにホッピーを飲んで中性脂肪を養っていたときで、担当者の方から伝えられる項目を急いでメモしてから電話を切り、平静を装って枝豆を口に放り込んだ瞬間、情けなくも少しだけ涙が流れてしまったことを覚えている。口から枝豆をボロボロ落としながら肩を震わせる三十路過ぎのおっさんは当時、全足立区のなかでもトップレベルの薄気味悪さだったに違いない。


そのあとは贈賞式まで、田辺百一名義の個人用名刺をなぜか手書きで作り直したり、人生で二度目のパーマをかけて気持ちよいほどに失敗したり。大好きなNHK杯テレビ将棋トーナメント準決勝を見ていたら、「この人と同じ髪型になったね」と友人に笑われ、「棋士というものをバカにすることだけは許さん」と制した直後に、その棋士がまさかの二歩で反則負けを犯し、何とも言えない空気が漂ったり。公式サイト上で実施されていたグランプリ予想投票は絶対に落ち着かなくなるので見ないようにしようと心に決め、毎晩のように自分の作品の「いいね」の数をチェックして一喜一憂したり。そんな日々を送ることとなった。


たしか、宣伝会議賞に初めて応募したのは、18歳のときだったはずだ。当時、大学の講義で出会って衝撃を受けた佐藤雅彦氏の影響で、広告業界を目指そうと安易に思い立ったことがきっかけだったと思う。今はもう開催されていないようだが、東京タワーの真下で開催される、とある広告関連のセミナーにも通ったりしていた(宣伝会議の養成講座でなくて申し訳ない)。


そのセミナーではCMコンテで審査員賞かなにかを受賞できたものの、それから在学中の4年間、毎年応募しつづけた宣伝会議賞では見事に惨敗。良くて二次審査通過止まりだったはずだ。それ以来、応募することは諦めてしまったと思う。


結局、今度は文芸評論家・福田和也氏のゼミに参加して、村上春樹氏の爪の垢を煎じたものを100倍、いや1恒河沙倍薄めたようなパクリ小説を書きはじめてみたり、何も告げぬまま某テレビ企画に出演し、行方不明騒ぎを起こして周囲に迷惑をかけたり、コミックアカペラバンドを結成してストリートライブで黒歴史を作ってみたりしつつ、就職活動もせずにダラダラと過ごし、大学を卒業。当然、卒業後の仕事は安定せず、図書館員、料理人、現場職人、ホテルマン、ウエイターなどなどを転々としながら、莫大な奨学金を返済しつづけることとなった。出版社で記者をやっていたこともあったが高校球児もびっくりの爽快さで倒産し、わずかな貯金を切り崩しつつ、ふかしたジャガイモだけで21世紀という新時代を生き延びる期間は続き、「人生の半分どころか大半が無職です!」と胸を張って言えるような生活を送っていたのである。


そんな栄華を極めたある日、とあるアダルト系のキャッチコピーを量産する仕事にありついた。その内容はここでは書けないような青少年の育成にぴったりのものばかりで、世間からは後ろ指すらさされないような、夜道で陰部を露出する透明人間みたいな仕事だったのだが、まがりなりにも職種はコピーライター。一つひとつのコピーに対して真剣に向き合うことにした。馬鹿にされるかもしれないが(というか実際に当時、死ぬほど馬鹿にされていたのだが)、どんなものであれ、コピーを書くのが単純に楽しかったからだ。


そのおかげもあってか、当初は「小僧めが、生半可な気持ちでこの世界に入ってきやがったな」という柔和な視線と鉄拳で迎えてくれた、この業界たたき上げの同僚や先輩たちと、いつのまにか打ち解けることができた。どんな世界であれ、仕事と真剣に向き合うことが信頼関係を築く最短の近道なのかもしれない。事実、あのまま大学を卒業して就職するというレールに沿って生きていたら、きっと出会うことのなかった世界で生きる彼らの仕事に対する姿勢は、失礼ながら意外にも誠実そのものだった。


結局、その会社もしばらくして清々しく倒産することになり(20代にして2度目の体験)、ふかしたジャガイモで全身の筋肉と血液を維持する日々へ凱旋する結果に至るのだが、アダルトなキャッチコピーを量産しつづけた日々は、「世間の評判を鵜呑みにして毛嫌いしてしまうことなく、何事も自分の目で実際に見てみないと分からない」という教訓をわたしに与えてくれた。


で、中国に渡ることにしたのである。当時、自身が最もネガティブな印象を抱いていた国だったからで、世間の評判ではなく自分の目で実際に見てみたいと考えてしまったわけなのだが、さすがに周囲は完全にあきれ返り、多くの人が遠ざかっていったのも現実だった。まあ、以降はキリがないので省略するが、「日本を捨てて中国で働くゲンサイ(現地採用者)の冒険」でも少しずつ書きはじめているような創造性豊かな日々を送ったのち、ひょんなことから某日本法人の中国支社長などを経験し、約4年弱で日本へ帰国。現在はWEB編集者という仕事に携わっている。


WEB業界にいると、それはそれは輝かしい才能が次から次へと登場し、その多くが自分よりもずっと若い世代だったりする。すでに三十路を超えた身としては、「もう自分の人生の可能性は尽きてしまったのかもしれないね」なんて独り言を真っ白なノートが真っ黒になるまで何度も書き綴ったりしていた。


そんな2014年の秋。斉藤和義氏の「君の顔が好きだ」の「顔」の部分をライブバージョンっぽく様々な女性の部位に変えて口ずさみながら、JR秋葉原駅より日比谷線の秋葉原駅へ向かおうとした地下通路で、宣伝会議賞のポスターが目に入った。これまでなら「ああ、懐かしいな」くらいで通り過ぎていたはずなのだが、そのときはなぜか立ち止まり、後ろを歩いていたタモリ氏とのっち氏(Perfume)を足して2で割ったような男性(?)に舌打ちをされることになった。


もし、あの地下通路に宣伝会議賞の広告がなかったら。タモリ氏とのっち氏を足して2で割ったような女性(?)に舌打ちされなかったら。そして、警察官に「なにをぶつぶつ歌ってるの」と職務質問されてしまっていたとしたら、わたしの人生はまったく違っていたのかもしれない。


前置きが随分と長くなってしまった(え、前置きだったの)。


結局、何が言いたいのかというと、18歳から32歳になるまでの実に15年間、とりとめのない人生をぷらぷら放浪するわたしとは違って、いつも変わることなく存在しつづけてくれた宣伝会議賞に、心から「ありがとう」と伝えたい。そして何よりも、あの秋葉原駅の地下通路にポスターを貼ろうと考えてくれた関係者の方には、感謝しても感謝しきれない。広告というものは誰かの人生を変える力がある。そのことを身をもって痛感させられることになった。


贈賞式で自分の名前が呼ばれたときの感覚はきっと一生忘れないと思う。だからこそ、次回の宣伝会議賞にも多くの作品が集まればいいなと思う。もし、年齢や何かしらの要因で自分の可能性を諦めてしまいそうになっている人がいれば、そんな人こそチャレンジしてみてほしい。よりたくさんの人が、この宣伝会議賞という時間を通して、過去の自分が夢見た将来の自分と、もう一度だけ向き合ってくれるようになれば、それだけで素敵なことなんじゃないだろうか。


以上。少し大げさな文章になってしまったことを恥ずかしく思いながらも読み返すことはせず、こんなわたしのことを支え、見捨て、励まし、罵倒しつづけてくれた人たちに感謝を込めて、投稿ボタンを勢いでクリック。えいっ。


※ないかとは思いますが、ご質問などがあればこちら(tanabehyakuichi@gmail.com)までどうぞ。可能な限り、ブログ上でお答えさせていただきます。