股間に紛れ込みにくい「iPhone 6」の購入を決意する冒険
その商談が重要であればあるほどなのだ。
出向いた先のクライアントのオフィスビルで用を足したくなるのは。
緊張のせいで下痢でもするというのであればまだ臭カワイイのかもしれないが、そうではない。いつだって現れるのは、なんとも立派なブツなのである。
今回の商談は、自社の経営陣も特に注目する重要なものだったので、念のため、30分前にはクライアントのオフィスビルのロビーへ到着。
すると、案の定、「やあ、キミか。がんばっているかね。悪い女にだけは気をつけるんだぞ。ワッハッハ」と、間違って他社の若手社員の肩を叩く重役のように、場違いな便意が悠々とやってきた。
すぐさまロビー横のトイレへ駆け込み、ズボンとパンツを一気に下ろす。が、なかなか奴は出てこない。手のなかで握りしめられた「iPhone 5」の時刻表示が、遅刻までのカウントダウンを刻んでいく。
結局、すべてを水に流し、しつこい存在感を完全にこすりとるまでに要した時間は28分。あと2分しかない。パンツとズボンを同時に引き上げ、手も洗わずに非常口マークのなかの人もびっくりの勢いでエレベーターへ飛び乗り、飛び降り、受付窓口へ走り、出迎えにきていた先方の担当者とかたく握手を交わす。
なんとか間に合った。
もう、その達成感だけで、このあとに控える超重要なプレゼンなんてどうでもよくなってしまったよ……なーんてジョークさ、はっはっは。……では済まなかった。
プレゼンがはじまる。
先方からは、重役を含めた10人ほどが参加したが、なんのその。わたしは肛門のスッキリ感に後押しされるように、自社サービスの売り込みをスムーズに進めていった。「では、最後に、わたしのiPhoneを使ってデモンストレーションしてみましょう」と、ジョブズ気取りの笑みを聴衆に投げかけるまでは。
ズボンの右ポケット。左ポケット。
上着の右ポケット。左ポケット。胸ポケット。
ズボンのうしろポケット。
上着の内ポケット。
窮地に立たされたドラえもんのようにポケットをあさるが、どこにも肝心のiPhoneがない。まさか、トイレに落としてきてしまったのかもしれない。
平静を装いながらも若干青ざめていると、先ほど大腸菌だらけのわたしの右手をつかまされた担当者が、「百一さんの番号にかけてみますよ」と発信ボタンをプッシュしてくれる。そして、わたしの周りで着信音が鳴らないか耳をすますも、残念ながら聞こえてはこない。
ただ、そのとき。
わたしの脊髄のほうには衝撃的な振動が走っていたことを彼は知らない。
彼は「うーん、誰も出ませんね」と首をかしげる。
そりゃそうだ。誰も出るわけがなかろう。
わたしのiPhoneは、
わたしの玉袋というクッションの下で、
わたしの玉袋を揺らしつづけているのだから――。
走馬灯のように、というのはこのことだろうか。
手に持っていたiPhoneをわたしは膝まで下ろしていたパンツの中に、とりあえず置き、ケツの、穴を拭き、パンツと、ズボンを、同時に、引き、上げ……た。
わたしは頭に浮かぶその再現映像によってパニック寸前に陥るも、先方の担当者の「もう一度、掛けてみますね」という言葉だけはなんとか断ることができた。これ以上、公衆の面前で玉袋を揺さぶられるわけにはいかないのだ。
とにかくプレゼンをここで終了することとし、素直に詫びた。
すると意外なことに、「まあ、肝心の見せ場でしくじるあたりが百一さんらしくて好きですよ」と笑いが起きてくれた。そのおかげか、具体的な商談に入っても、話はとんとん拍子でまとまっていった。
一度は冷や汗をかきはしたものの、なんとかなりそうじゃないか。
わたしの心にも余裕が戻り、姿勢を少し楽にして椅子に座りなおす。
商談も終盤に差し掛かり、「お昼は何食べようかな」などと考えはじめていたころ。
突如、「ティントーン!!」と、電子音が辺りを引き裂いた。
先方の重役が鬼の形相で自社のメンバーをにらみつける。
そして、わたしに向かって「すみません」と軽く頭を下げた。
ティントーン!! ティントーン!!
重役はついに我慢できず、「マナーモードにしておけ!」と低く怒鳴る。
クライアント側の社員たちが自分のスマホを取り出しては「わたしのではありません」といったようにアピールする。一人も残らず。
じゃあ、誰なのか。
ティントーン!! ティントーン!!
ティントーン!! ティントーン!!
わたしは部屋に掛けられたおにぎり型の時計を見て、その相手が誰だかを悟った。うちの直属の上司である。ちっぽけな会社の行方を左右する重要商談の終了予定時間を大幅に過ぎても連絡がなかったので、結果がどうなったのかが気になり、LINEを送ってきたのだろう。
勝って兜の緒を締めよ。いや、勝って玉袋下のiPhoneのスイッチを締めよ、か。
まさか、マナーモードが解除されてしまうなんて。わたしは、姿勢を少し楽にして椅子に座りなおしたことをひどく後悔している。
ティントーン!! ティントーン!!
ティントーン!! ティントーン!!
ティントーン!! ティントーン!!
先方の担当者が「ああ! 百一さんのケータイ、ズボンのポケットにあるじゃないですか。よかったですね!」と、電子音の戦犯がわたしであった事実をなんとかフォローしようとしてくれる。それなのに、「ああ、ほんとだ、よかった! すみません。マナーモードに切り替えますね!」と応じることはできない。
わたしには自信がないのだ。
もし、いきなりパンツのなかに手を突っ込んでiPhoneを取り出したとしたら、そのときも「百一さんらしくて好きですよ」と、彼らは笑ってくれるのだろうか。
二度と同じあやまちを犯さないためにも、より画面サイズが大きいという「iPhone 6」に買い替えよう。きっと股間に紛れ込みにくいに違いないから。玉袋がどう動いてもマナーモードが解除されない機能も搭載されていますように。
遠のく意識のなかで、そんなことを考える。
ティントーン!! ティントーン!!
ティントーン!! ティントーン!!
ティンコーン!! ティンコーン!!
チィンコーン!! チィンコーン!!